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2013年4月22日 (月)

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活  No37

視床出血は感覚麻痺   リハビリや病気治癒にはどのような精神状態がよいのだろうか  三途の川で溺れた病気かな  肝腫瘍 その1 肝腫瘍 その2 肺がんの発見 肺がんの手術と脳の血管造影

 4月15日(月)、感覚が徐々に戻ってきつつあります。そう、完全にはまだ戻ってないです。戻り方の順序なんて私にはわかりません。戻ってきて困ったことの一番は右半身と左半身の温感の違いです。これを感じ始めたのが昨年の秋頃だったかな。右半身は何ともないのに左半身は震えています。右半身の感覚で服とか暖房とかをしています。温風器は左半身側に置いているのですが、効果なし。冷たいものを左手と右手で触ると左手の方で冷たく感じます。両方の感度が何時ぐらいになったら同じぐらいになるのでしょうか。他の感覚は単純に左の方がまだ悪いです。不思議なのが視力では以前と同様な左右の視力の感じです。それでも徐々によくなってきてくれていたので視床痛みたいなのにはならなかったようです。再生中ということで痺れは続いていますし、筋肉からの感覚の問題か足や腕、手が安定しないですね。感覚は触ってみるなどの刺激や軸索や樹状突起が伸長しやすいように必須脂肪酸などの栄養にも気を遣っています。感覚細胞と脳の感覚中枢が繋がらないことには感覚は復活しませんからね。感覚神経が麻痺したことで手足などを動かせなくなりました。そう、動作は運動神経と感覚神経の共同作業だったのですね。
 4月16日(火)、リハビリに確実な方法はあるのでしょうか。あるのでしたら教えて下さい。意識の問題としては「リハビリで復活するのだ」とか思っているのと、「ダメだ。もうお終い。」と思っているのとでは大きな違いが出てくると思います。がんなどと違って戦うものではないですね。私は肺がんで肺の一部を摘出しています。こちらは生死にかかわりますから、ある意味がんとの戦いです。治療をするしないもあるのですが、「治すのだ」とかの意識がかかわっている感じがします。免疫細胞は意識を感じ取るようなのです。私の視床出血は出血時が一番やばくて生き延びたら、がんみたいに生命を脅かさないですね。自分でどう体の機能を向上させていくかということであって、戦いではないと思います。棺桶に何回か入りかけて外に転げ出た者としては生きながらえたことをありがたく思い、家族や関係者の助けを受けているのですから、「向上」していくというのは戦いではなく、生きていくための義務かもしれないですね。障害と闘うのではなく、障害と付き合いながら機能回復をはかっていこうと思っています。ブログ村の病気のカテゴリーには入りますが、脳出血・脳梗塞のカテゴリーから外れる過去の闘病記も書いてみようかなと思っています。死に損ないのあっけらかんの闘病記です。
 4月17日(水)、棺桶に入る可能性のあった病気としてはまず1987年9月の消化管出血がありました。こちらは今回の視床出血ほど短時間の出血ではないですが、夕方4時ぐらいに下血、6時過ぎに下血、さらに何回かの下血で翌朝午前2~3時が最終だったと思います。死の恐怖がよぎりました。朝、近所の内科医にいったところ、そこのトイレでのこりカスを出すことができたのでそれをみた主治医は「即入院」ということで隣の市の市民病院に入院ということになりました。結構元気な感じだったと思います。入院した時点では実際はもう止まっていました。今回と同じかな。ただ、1週間後の血液検査で赤血球数が300万ぐらいまでに減少していました。そこから、推計すると結構短時間でほんの1.5~2リットル程度の出血かなと思います。病院の主治医もびっくりということです。短時間出血ではどのぐらいの量で三途の川を渡れるのかな?。血液量は体重から考えると5リットル弱かな。すでに生きながらえているので病院で「死」というものと向き合うこともなく大人しくしていました。赤血球数の増加など血液が平常に戻ればよかったということですが、病変を探してみるという検査がいろいろとありました。胃カメラ、小腸の透視検査、大腸鏡、大腸透視などなど。何もなかったです。主治医が検査機器を使えるかどうかでその日の検査の順が決まっていた病院でした。ちょっと一気にドバッと出血しただけだったので血液状態が戻ったらそれで完了でした。原因は「ストレス」だと思っています。今みたいなネットの利用ができていたらここまでストレスがかかることはなかった事例であったと思います。このときから、若い綺麗な看護師さんの前で裸になるとかが検査の都合とかで必要になりました。だんだん慣れていくことになりました。大腸検査のための浣腸は準看護学校の実習生だったかな。若いよね。三途の川は無事に渡ると地獄の庁に行けますね。溺れたら戻ってくるしかないのでは(笑)。次回は棺桶からは遠い病気の予定です。
 4月18日(木)、私としては棺桶から遠い病気と感じています2回目の入院についてです。1992年だったかな。職場の友人の母親が脳梗塞で亡くなったということで人間ドックにいきたいけど「付き合え」ということで申し込んだら8月にドックにいくことになりました。ドックでエコーの時、担当者が仲間を呼んで確認して貰っていました。結果が郵送されてきてみると「エコー→肝に陰」『肝臓と肝(きも)を一応使い分けているつもりです。』で精密検査をということなので、隣のがんセンターを受診しました。CT、よくわからない。MRIも確定できない。エコー陰がある。というので肝臓の血管造影検査を受けることになりました。前回の入院でスリッパは懲りたのでサンダルにしました。音の出るのはダメですよ。股の動脈からカテーテルを入れて肝動脈に造影剤を直接注入して撮影するという検査です。この下準備に股のあたりの毛を綺麗に剃っておくというのがあって、外泊したときに風呂で剃ったのです。そこを若い知り合いの看護婦さんが状態を見て、「そり直し」となりました。そのそり直しの時、息子が元気になってきたため一時中止などもありました。検査時は局所麻酔をするので痛みは麻酔注射の時ぐらいでした。こちらは寝ているだけですが、検査後は「動脈を切開」したということなので止血のため翌朝まで切開した方の足を伸ばしたまま寝返り不可で寝たままです。事前に溲瓶で練習したときは出たのですが、本番では出ませんでした。結局翌日午前10時頃にトイレに行って漸く放尿です。尿量を測定していたので500mlの容器で受けていたら、溢れてしまいました。人間の膀胱って貯めれるのですね。でも、適度に出す方が腎臓にはいいですよ。ケリが付かないので翌年3月に2回目の造影検査をして、『肝なので「切除しても膨れる」ということもあって摘出しましょう』となりました。まだ、このあたりまでは1階に行くときもエレベーターだったかな。長くなるので続きは次回に。
 4月19日(金)、昨日は表題を入れ損なって、投稿後気がついて入れました。2回投稿みたいになりました。消化器外科に診療科が代わって手術をしました。写真で見た私の肝は綺麗でした。肝臓の大血管を切断するかもということでICUに3泊4日予約されていました。このときは点鼻薬は持ってきていました。手術の翌日、その翌日も執刀医が現れて、診断かな、「戻ってもいいけど、土日なので病棟は看護師が少ないから月曜までおって下さい。」元気になってきたらおる場所ではないICUに滞在させられました。病室に戻ってから、まあ、順調かな。背中に入れていた鎮痛剤の管はちと早めに抜いて貰ったら執刀医は苦虫を噛んでいました。寝にくかった原因はお腹に入れられていた管でした。ベッドから降りてよくなってから、階段利用が始まったというか頻繁に利用するようになりました。朝の散歩も始めました。あるとき、友人がお見舞いに来られたのですが、トイレに行って、そのまま非常扉を開けて階段を下りようとしたときに見つけてくれたので会うことができました。結構回復は早かったです。良性腫瘍だけだったので、早い早い回復をしました。この後、いつ頃からかダンベル体操を始めました。始め3kgからで徐々に増やして10kgにまでしました。もっともエコーでわかったのは「あなたの肝が少し霜降りになっているからだ」と主治医に言われました。次は肺がんです。
 4月20日(土)、肝腫瘍の摘出後の定期検査を受けていました。職場の検診は受けていません。それに相当する検査をこのがんセンターで受けていたのです。一番の理由が放射線の問題です。胸部レントゲンですが、一般の検診車ですと肺結核検診用の流用ですので、初期のがんは見落として当たり前らしいのです。集団検診では意味のない被爆と考えたわけです。で、病院での直接撮影愛用者になりました。その上、間接撮影の方が被曝量が多いという話も聞きました。原理的にそうでしょうね。胃部検診ですが、検診台に乗っている間結構な時間放射線を浴びています。だから、「右向いて」とか「回転して」とかいえるのです。そして、できるだけ撮影条件をよくしてから撮影なので、あの撮影時のみではないのです。肝の血管造影の時も同様でした。で、がんセンターの胃カメラ愛用者になりました。そして、これで異常がなければ治癒放免という5年目(1999年)の定期検査の時も同様に検査を依頼し、撮影して貰ったりしました。結果を聴きに行ったとき、主治医は胸部写真を忘れてしまっていました。「胸部も取りましたが」というと、「室外で待ってて」で、呼ばれていくと右胸に陰が。また、「外で待ってて」で前年のを取り出してきてました。「はい、CTね。」で予約は看護師がしました。CTの後、結果を聴きに行くと「直径2cmほど」で「呼吸器科への紹介状を書いておくから、予約を取っていってね」。この一言が病院変更を決断させました。妻に「次、入院するときは近くの病院にして」といわれていたのです。肝臓の手術後に徒歩圏内に総合病院ができました。そう、今回、救急でかつぎ込まれた病院です。この肺のことで脳もかかりつけ病院になっていたのです。長くなるので続きは次回に。
 4月21日(日)、肺の影ですが、近所の内科に行って、「職場の検診で指摘された」ということで紹介状を書いて貰いました。呼吸器科を受診しました。がんセンターの紹介状はがんセンターの私のカルテに挟まったままだと思います。また、CT、気管支鏡、骨シンチレーションなどをして、入院になりました。手術の前日の説明で担当医から「検診でよく見つけて貰いましたね」といわれました。職場の検診では見落としが多いからでしょうね。特に「初期がん」では。普通は見落とされる大きさだったようです。検診車じゃないから、直接撮影の大きな1枚を前年の大きな分と比較してだから、見つけて当たり前とは紹介状の手前いえなかったです。撮影した時期のタイミングが非常によかったということかな。数ヶ月前なら直接撮影でも写っていなかったかも。翌日、手術でICUは半日だったかな。今回はICUまで点鼻薬を持ってきて貰っていました。手術後、朝食で一度だけ胃から逆流させてしまったことがありました。1週間後ぐらいに肺に入れていた管を抜いて貰って自由の身になりました。管の入っているとき、「寝れない」とかで睡眠導入剤を処方して貰って服用した結果、寝ている間に裸になっていたみたいなのです。以後、導入剤は中止、以前から「夜寝たい」と昼間活動をしていたのをさらに活発にすることにしました。「薬」には副作用がありますから注意しましょう。自由の身になってから、売店のある階まで階段を使うようにしました。病室は9階です。売店は2階。MRIは地下1階。自由の身になってすぐ頭のMRI撮影に呼ばれました。当然、階段を下りていきました。これは、入院前の頭部CTで非常によくない感じの血管が見つかっていたのです。これでも疑問のまま。で、脳の血管造影」をしますかという判断を求められました。方法は「股の血管にカテーテル」という検査です。このときの毛ぞりでは、知り合いではなかったので、その点は気楽でした。でも、息子から「液体」がすこ~し漏れました。尿に関しては管を挿入して貰いました。この管挿入は簡単なのですね。頸動脈の方まで伸ばすので脳梗塞の危険もありますということでした。造影検査をしました。血流は普通の血管を流れているのと同様で動脈瘤の流れ方ではなかったので一件落着でした。これで、脳の方もかかりつけ病院となりました。こっちは救急受け入れもしています。無理して行こうとした理由です。他の病院では「動脈瘤」騒動も加わることになりますのでね。自由の身になって3日目ぐらいかな。主治医はいないだろうと9階の階段の扉を開けたら、ばったり。「どこから」というので「2階から」、「未だ早い」のお言葉でした。でも、やめれなかったです。何日目だったかな。結果を教えてくれたとき、「5年生存率65%」といわれました。それなりの根拠も説明してよ。「からだの科学」の「肺がん」の数字そのままでした。大きさは18mm×20mmでした。長くなるので続きは次回に。

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