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2013年4月29日 (月)

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活  No38

術後体操はしっかりしましょう。「ヤブ」に注意、殺されるかも。  腫瘍はもう1回です。開業医でも「ヤブ」がありました。 脳出血や脳梗塞時の血圧上昇現象「クッシング現象」   繰り返し繰り返し  履き物の底の厚さと平衡感覚  リハビリでの目標「発症前より美声に」等、以前よりよりよい状態に  悔しくてもより改善しているリハビリを参考にしましょう

 4月22日(月)、手術したときはできるだけ運動した方が治りがよいようです。無茶はダメですよ。このとき、背中の筋肉痛が激しかったので、困って主治医に聞いたら「背中の筋肉も切ったからね。」といわれ、背中の筋肉を痛みをこらえながら伸ばしたら、はい、痛みが消えました。この後で、もらった「術後体操」の冊子をみたら書いてあるではないか、読んでおくものだと思いました。で、予定通りに近い感じで退院しました。こちらはタイミングが悪かったら、「棺桶」に収まっていた可能性のある病気でした。退院しても、転移や再発の可能性があるので定期検査が続くことになります。年に一度、頭部と胸部、腹部のCTと骨シンチレーションがありました。翌年のこの骨シンチで1カ所、集積した場所があったのです。骨シンチは放射性物質を血液に入れて、骨新生が盛んなところに集積するという性質を利用したものです。ですから、骨新生が盛んであれば集積します。がんが転移しておれば、溶骨作用があるので、骨は再生しようとします。つまり、骨新生ね。でも、骨折とかでも「骨新生」が起こります。だから、「この検査は解析で骨の折れる検査」ともいわれているのです。「骨転移は普通複数箇所」、このときは1カ所のみ。「骨転移は激しい痛みを伴う」らしいのですが、痛みなし。「骨転移は単純エックス線撮影では溶骨像か骨硬化像」だそうですが、これもなし。執刀医のみが「転移」で「放射線治療を」でしたが、のらりくらりでしのぎました。しばらくするとなにもいわれなくなりました。翌年の検査では別の箇所、あごに集積。前年のは?のままで消えていました。虫歯の指摘。歯医者で治療しました。虫歯検査にも使えますよ、「骨シンチ」。どこの病院でもいる思い込みの激しいタイプのヤブだったかな。この後、すぐにいなくなりました。柔軟に考えたら「転移」には行き着かないと思いますけどね。他はよいお医者さんです。CTなどの検査は5年間続きました。胸部レントゲンと血液検査はその後も5年間、計10年間続きました。それで釈放されました。でもね、健康診断のうち、胸部レントゲンを検診車でするようになったのは痛かったです。胃部検診は肺がんの時から、今の主治医(開業医)のところで夕方にしています。朝食食べて、お昼にはスポーツドリンクやあめ、キャラメルを適度に、午後3時ぐらいまででしたら水分補給してもよいですということなので、病院の食わず飲まずより楽ですし、モニターに映し出される映像は綺麗です。だから、あの食わず飲まずは何なのでしょうね。
 4月23日(火)、以上のほかに2002年に左足親指付け根あたり(裏の方ね)に皮膚科該当の良性腫瘍をやっています。紫外線、怖い。お肌に単に悪いというだけではないので。良性腫瘍と悪性腫瘍の違いは「転移」の有無だそうです。日経サイエンスの2000年ごろの論文に良性腫瘍から悪性腫瘍に変わるものもあるというのもありました。まあ、腫瘍ですが、御近所の総合病院、入院した病院で通院ですみました。この件で初診で言った日に「生検」をしましょうということになり、処置して貰っていたら、「取れちゃった。」という声が。摘出手術になってしまいました。その後で肉が焦げる臭いがしたので聞いたら、「止血処置です。」と言うのです。レーザーメスと同じ原理を利用していました。何回か通院してお終いです。そうそう、肝臓の手術もレーザーメスだったようです。輸血ゼロでできたと言っていましたかね。レーザーメスができるまでは血管の塊の肝臓手術は「出血との戦い」だったと聞いたことがありました。2006年頃かな。飛蚊症でこの総合病院に通院が始まります。半年に1回ぐらいです。ここに飛蚊症でいった理由は近所のヤブ眼科医が連休中にさらに連休をとっていたため「休診」だったのです。飛蚊症は今はコンタクトレンズを処方して貰っている別の眼科に通っています。このヤブは近視が遠視になってきていて(こういうことがあるのです。)見にくくなったので行ったら、コンタクトレンズの度数を聞かないというアホでした。遠視が近視のコンタクトをしたら視力どうなると思います?見えるわけないでしょう。基本的な問診もしないというアホ。評判よくないようです。だから、セカンドオピニオンが必要なのですね。ただ、この眼科医、厄介なのは他に丸投げみたい。この点はよいといえばよいですが・・・。現在の私が罹りそうな病気はこの総合病院で面倒みて貰えそうです。このあたりの地域の中心病院として設立されているので近所の開業医からの紹介は大抵ここです。救急もしています。がんセンターは救急はしていないです。がんセンターのあの消化器科の医師の一言「自分で予約して」がありがたい一言になったということかな。
 4月24日(水)、先週の金曜日の訪問リハビリでセラピストさんがいうには、脳出血や脳梗塞の直後は血圧が上昇して、最高血圧が200mmHgになることもあるというのです。「クッシング現象」と言うようです。日頃から高血圧でなくても脳出血や脳梗塞などでみられる血圧上昇のことだそうです。調べて見てね。ということは、脳出血直後の高血圧はこの現象によると考えられますが、そうすると、怖いのが「高血圧でないのに出血した」と言うことになります。血圧の薬を飲み続けているとどうなるのか、なにかこわ~い感じもします。
 4月25日(木)、ここ数日の間は足の硬直感が強かったです。で、屈伸運動を意識的に日中もしました。毎日、お風呂では足の屈伸、ストレッチ、腕のストレッチ、屈伸をしています。なぜか、湯船で浸かりながら運動したときは痛みとか痺れが軽くなっているので、欠かさずしています。もう少し湯船が長かったら、全身を伸ばせるのですが、足はしっかり伸ばしています。硬直感が強くなるとその後、歩行とかがしっかりしてくるようです。理由は筋肉の感覚神経が復活して、筋肉を緩めるという状態を理解するまでの間頑張ってしまうからかな。緊張したままですと大変ですよ。毎日、ちょろちょろの分もあるから、ふらつくのでしょうか。リハビリをしていて感じたことは脳が普通の状態も忘れてしまっているということでした。前にも書いたように「運動は感覚神経と運動神経の共同作業」だと思っているので、私みたいな視床出血では感覚神経がダメージを受けての麻痺なので、回復した分がある度に脳が学習しているのでしょうね。つくづく脳の回復力は凄いなと思う日々です。ただ、本人が回復したいと何らかの活動をしている場合に限るようですが。人間の能力は使わなかったら低下してしまうようです。この出血があった後、思いもつかなかったこと、「動かないままになるのかな」ということです。出血で手で物が持てなくなったことがわかったとき(入院直前ね)、「リハビリで復活する。」とは思いました。当て外れは結構復活に時間がかかるということですかな。
 4月26日(金)、ブログ村病気脳卒中のページで他の方の記事をクリックして読みに行くというのはそのページの「OUTポイント」を増やすのであまりしたくない(大笑い)のですが、毎日どなたのところにはいっています。歩行と靴の底の厚さの関係について書かれているのがありました。失礼ですが、「当たり前だよ。」です。ふらつくのは平衡感覚の問題と脳卒中による筋肉制御の問題の両方かな。平衡感覚は健康な人でも鍛えるためにはできるだけ裏の薄い履き物がよいと。地下足袋なんか最高かも。本当は土の上を裸足で歩き回るのがよいそうです。だったら、脳卒中等で一度麻痺して、再学習(リハビリ)をしているのだから、薄い方がいいですよ。普通の場合は程度の問題ですが。私のリハビリの体験では、歩けるようになる→ふらつきとかがきつくなる→以前より安定的→またふらつく→以前より安定的→またふらつく→・・・と繰り返し繰り返しです。その度により長距離に、少しずつ速くなったりしています。この頃は5000~6000歩ぐらいなら休息なしに歩けるようになりました。歩いているときに横を健常者が歩いていたら、遅れないように歩いて見たりだったのが、この頃は遅い速さの健常者なら追い抜いていったりもしています。目標は「わんちゃんと一緒に走る」ですから、今の状況はまだまだリハビリ途上です。昨日の投稿に『思ったことのないこと、「このまま動かなくなるのでは」ということ』というのは人間について、ぼちぼちまともな知識があったからかなと思います。
 4月27日(土)、昨日の続きで「リハビリでの目標」、どの程度まで回復したいかということです。最初の病院でのリハビリではこの件についてはなかったですが、PTで「病院からの逃亡」とかを冗談で言っていました。OTは「コンタクトレンズを自分でしたい」が暗黙かな。リハビリ病院に転院したら、この目標というのを聞かれました。PTでは、表向き「わんちゃんとの散歩」、裏では「近所のスーパーに3.8リットルの水をもらいに行き、それを担いで、側の百貨店の1階から5階まで階段を登っており、家まで担いで帰る」とかをいっていました。OTでは「コンタクトレンズを自分で装着できる」としましたが、この意味は「左手でも右手と同様にコンタクトレンズが扱える」という意味です。感覚が戻らない限り無理かも。いまだにコンタクトレンズを左手では感じないです。コンタクトレンズを触ってわかるような感覚が戻ってきたら、なんでもできるかも。STでは、「発症前より美声に」ということにしました。家族は発症から1ヶ月半ぐらいで「元に戻っている」でしたからね。リハビリして貰えるのなら、「以前よりよりよく」を目指したいですよね。PTでの歩行でもリハビリで「発症前より格好いい歩き方」というのが家族でした。リハビリで教えてくれる歩き方は「美しく足に負担をかけることなく歩けようになる」という感じでした。「ともかく歩けたらいい」というものではないです。だから、しんどいかもしれないですね、後が楽なのに。「その時楽だったらいい」でしているとよい方の足を痛めることになるようです。片足を痛めるとその後、よい方の足を痛めてしまう例が非常に多いのは足の使い方がわかっていないからだと思います。
 4月28日(日)、ブログ村から他の人の闘病記を読んでいて、思ったこと。私が勝手に思っていることなので見当違いもあるかも。症状とかは人それぞれなので違いは出てきます。私の場合は間脳視床出血でした。病院到着時意識なし(これやばかったようです。)なので、多くの割合で死、もしくは寝たきり、もしくは車イス生活だそうです。高次脳機能障害も多いらしいです。今はこれらにはすべて非該当です。左半身は完全に麻痺しました。このような状態からの私のリハビリ体験を元にしますのできつめの思いになります。ある人のお手玉を麻痺した方の手でつまみ上げて隣の机に移動する様子の写真がありました。その写真を見ると腕や手が障害を受けた証明みたいに曲がっているのです。私も曲がっていました。発症後、2週目あたりからだったかな、「伸ばす」という運動を繰り返ししました。OTのセラピストさんが「伸ばせたら掴めるよ。麻痺したら曲がっているでしょ。」の一言が切っ掛けでした。曲がっているというのは屈筋が硬直しているからです。緩めないと作業ができないですよね。写真は退院後のリハビリのようなので、「伸ばす」ということをどう思っていたのかなと思います。今でも思うことは「筋肉がリラックスしてくれない。」ということです。リラックスさせようとするのですが、曲がりたがりますね。脳からの命令で筋肉が収縮するように普通の時は「ゆるゆる」でいいではないですか。必要な時に必要な部分の筋肉が収縮できないとか収縮しっぱなしとかなので、練習あるのみですが、練習時でもできるだけ、筋肉を休めた方がいいのではと思いました。死の底から完全復活を目指している者からみると、もっと勉強されたらと思うブログでした。

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2013年4月28日 (日)

歴史を学ぶ意義、歴史を考える意義「未来をみるため、未来を潰さないため。」

 また、春の例大祭とかで参拝がおこなわれましたね。個人の自由ですから、普通はどうでもいいですが、内閣のメンバーともなると事情は違ってくると思います。先の大戦で天皇陛下に「死の覚悟」をさせたのは誰ですか。先の大戦で多くの玉砕(はっきりって無駄死に)を日本の将兵に強いたのは誰ですか。近隣諸国や捕虜の扱いでBC級戦犯に多くの将兵を追いやったジュネーブ条約等を無視させた張本人は誰ですか。会議で決定できずに一部の暴走を止めることができずに戦争に突入を決めたのは誰ですか。等々。
 歴史の勉強は「出来事を覚える」とだけだと思ってはいないですか。「過去に眼を反らす者は未来に対しても見えなくなる。」というのが常識ですよ。東京電力の原発事故も同類では。事故の報を受けて「会議」、方針が決まらずもたもたしているうちに水素爆発、メルトダウン・・・。外野からの「海水注入」提言を「うるさい」と無視。第二次世界大戦突入と同様かな。あるいは柏崎の地震で甘く見ていた?とか。家電メーカーの衰退も「会議すれど決まらず」に行政の補助も同様だった。情報の無視とかも、あの帝国陸軍などはしっかり無視していましたからね。
 A級戦犯に該当した方々の施策で日本は焦土とかし、原爆まで落とされました。あれも、敗戦を認めたくないというプライドだけですかな。昭和天皇の実行力のみでしか終戦に持って行けなかった日本の行政機構、根本はそのままでは。例としては水俣病被害者救済について、「政治で決着」ができていないですよ。
 日本人もしたことは忘れやすいですが、されたことはよく覚えていますよね。外国もですよ。パレスチナ人は先祖が十字軍に殺されたことを覚えています。これはNHKの放送でみました。中国や韓国でも同様でしょうね。
 農業保護でも、その歴史の検証をしていないから、「自給率40%」や「後継者なし」になっていくのですよ。財政で「建設国債」と「赤字国債」を使い分ける詭弁を弄していますが、国民にとってはその時の税金をどこに使われたかというだけで「借金」には変わりはないですよ。これも、「歴史から学ぶ。」ということから目を背けてます。
 当時と同じような間違いを起こしかねない内閣かなという感じがするのです。戦争とかはないと思いますが、「歴史に学ばない」という意味においてです。

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2013年4月22日 (月)

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活  No37

視床出血は感覚麻痺   リハビリや病気治癒にはどのような精神状態がよいのだろうか  三途の川で溺れた病気かな  肝腫瘍 その1 肝腫瘍 その2 肺がんの発見 肺がんの手術と脳の血管造影

 4月15日(月)、感覚が徐々に戻ってきつつあります。そう、完全にはまだ戻ってないです。戻り方の順序なんて私にはわかりません。戻ってきて困ったことの一番は右半身と左半身の温感の違いです。これを感じ始めたのが昨年の秋頃だったかな。右半身は何ともないのに左半身は震えています。右半身の感覚で服とか暖房とかをしています。温風器は左半身側に置いているのですが、効果なし。冷たいものを左手と右手で触ると左手の方で冷たく感じます。両方の感度が何時ぐらいになったら同じぐらいになるのでしょうか。他の感覚は単純に左の方がまだ悪いです。不思議なのが視力では以前と同様な左右の視力の感じです。それでも徐々によくなってきてくれていたので視床痛みたいなのにはならなかったようです。再生中ということで痺れは続いていますし、筋肉からの感覚の問題か足や腕、手が安定しないですね。感覚は触ってみるなどの刺激や軸索や樹状突起が伸長しやすいように必須脂肪酸などの栄養にも気を遣っています。感覚細胞と脳の感覚中枢が繋がらないことには感覚は復活しませんからね。感覚神経が麻痺したことで手足などを動かせなくなりました。そう、動作は運動神経と感覚神経の共同作業だったのですね。
 4月16日(火)、リハビリに確実な方法はあるのでしょうか。あるのでしたら教えて下さい。意識の問題としては「リハビリで復活するのだ」とか思っているのと、「ダメだ。もうお終い。」と思っているのとでは大きな違いが出てくると思います。がんなどと違って戦うものではないですね。私は肺がんで肺の一部を摘出しています。こちらは生死にかかわりますから、ある意味がんとの戦いです。治療をするしないもあるのですが、「治すのだ」とかの意識がかかわっている感じがします。免疫細胞は意識を感じ取るようなのです。私の視床出血は出血時が一番やばくて生き延びたら、がんみたいに生命を脅かさないですね。自分でどう体の機能を向上させていくかということであって、戦いではないと思います。棺桶に何回か入りかけて外に転げ出た者としては生きながらえたことをありがたく思い、家族や関係者の助けを受けているのですから、「向上」していくというのは戦いではなく、生きていくための義務かもしれないですね。障害と闘うのではなく、障害と付き合いながら機能回復をはかっていこうと思っています。ブログ村の病気のカテゴリーには入りますが、脳出血・脳梗塞のカテゴリーから外れる過去の闘病記も書いてみようかなと思っています。死に損ないのあっけらかんの闘病記です。
 4月17日(水)、棺桶に入る可能性のあった病気としてはまず1987年9月の消化管出血がありました。こちらは今回の視床出血ほど短時間の出血ではないですが、夕方4時ぐらいに下血、6時過ぎに下血、さらに何回かの下血で翌朝午前2~3時が最終だったと思います。死の恐怖がよぎりました。朝、近所の内科医にいったところ、そこのトイレでのこりカスを出すことができたのでそれをみた主治医は「即入院」ということで隣の市の市民病院に入院ということになりました。結構元気な感じだったと思います。入院した時点では実際はもう止まっていました。今回と同じかな。ただ、1週間後の血液検査で赤血球数が300万ぐらいまでに減少していました。そこから、推計すると結構短時間でほんの1.5~2リットル程度の出血かなと思います。病院の主治医もびっくりということです。短時間出血ではどのぐらいの量で三途の川を渡れるのかな?。血液量は体重から考えると5リットル弱かな。すでに生きながらえているので病院で「死」というものと向き合うこともなく大人しくしていました。赤血球数の増加など血液が平常に戻ればよかったということですが、病変を探してみるという検査がいろいろとありました。胃カメラ、小腸の透視検査、大腸鏡、大腸透視などなど。何もなかったです。主治医が検査機器を使えるかどうかでその日の検査の順が決まっていた病院でした。ちょっと一気にドバッと出血しただけだったので血液状態が戻ったらそれで完了でした。原因は「ストレス」だと思っています。今みたいなネットの利用ができていたらここまでストレスがかかることはなかった事例であったと思います。このときから、若い綺麗な看護師さんの前で裸になるとかが検査の都合とかで必要になりました。だんだん慣れていくことになりました。大腸検査のための浣腸は準看護学校の実習生だったかな。若いよね。三途の川は無事に渡ると地獄の庁に行けますね。溺れたら戻ってくるしかないのでは(笑)。次回は棺桶からは遠い病気の予定です。
 4月18日(木)、私としては棺桶から遠い病気と感じています2回目の入院についてです。1992年だったかな。職場の友人の母親が脳梗塞で亡くなったということで人間ドックにいきたいけど「付き合え」ということで申し込んだら8月にドックにいくことになりました。ドックでエコーの時、担当者が仲間を呼んで確認して貰っていました。結果が郵送されてきてみると「エコー→肝に陰」『肝臓と肝(きも)を一応使い分けているつもりです。』で精密検査をということなので、隣のがんセンターを受診しました。CT、よくわからない。MRIも確定できない。エコー陰がある。というので肝臓の血管造影検査を受けることになりました。前回の入院でスリッパは懲りたのでサンダルにしました。音の出るのはダメですよ。股の動脈からカテーテルを入れて肝動脈に造影剤を直接注入して撮影するという検査です。この下準備に股のあたりの毛を綺麗に剃っておくというのがあって、外泊したときに風呂で剃ったのです。そこを若い知り合いの看護婦さんが状態を見て、「そり直し」となりました。そのそり直しの時、息子が元気になってきたため一時中止などもありました。検査時は局所麻酔をするので痛みは麻酔注射の時ぐらいでした。こちらは寝ているだけですが、検査後は「動脈を切開」したということなので止血のため翌朝まで切開した方の足を伸ばしたまま寝返り不可で寝たままです。事前に溲瓶で練習したときは出たのですが、本番では出ませんでした。結局翌日午前10時頃にトイレに行って漸く放尿です。尿量を測定していたので500mlの容器で受けていたら、溢れてしまいました。人間の膀胱って貯めれるのですね。でも、適度に出す方が腎臓にはいいですよ。ケリが付かないので翌年3月に2回目の造影検査をして、『肝なので「切除しても膨れる」ということもあって摘出しましょう』となりました。まだ、このあたりまでは1階に行くときもエレベーターだったかな。長くなるので続きは次回に。
 4月19日(金)、昨日は表題を入れ損なって、投稿後気がついて入れました。2回投稿みたいになりました。消化器外科に診療科が代わって手術をしました。写真で見た私の肝は綺麗でした。肝臓の大血管を切断するかもということでICUに3泊4日予約されていました。このときは点鼻薬は持ってきていました。手術の翌日、その翌日も執刀医が現れて、診断かな、「戻ってもいいけど、土日なので病棟は看護師が少ないから月曜までおって下さい。」元気になってきたらおる場所ではないICUに滞在させられました。病室に戻ってから、まあ、順調かな。背中に入れていた鎮痛剤の管はちと早めに抜いて貰ったら執刀医は苦虫を噛んでいました。寝にくかった原因はお腹に入れられていた管でした。ベッドから降りてよくなってから、階段利用が始まったというか頻繁に利用するようになりました。朝の散歩も始めました。あるとき、友人がお見舞いに来られたのですが、トイレに行って、そのまま非常扉を開けて階段を下りようとしたときに見つけてくれたので会うことができました。結構回復は早かったです。良性腫瘍だけだったので、早い早い回復をしました。この後、いつ頃からかダンベル体操を始めました。始め3kgからで徐々に増やして10kgにまでしました。もっともエコーでわかったのは「あなたの肝が少し霜降りになっているからだ」と主治医に言われました。次は肺がんです。
 4月20日(土)、肝腫瘍の摘出後の定期検査を受けていました。職場の検診は受けていません。それに相当する検査をこのがんセンターで受けていたのです。一番の理由が放射線の問題です。胸部レントゲンですが、一般の検診車ですと肺結核検診用の流用ですので、初期のがんは見落として当たり前らしいのです。集団検診では意味のない被爆と考えたわけです。で、病院での直接撮影愛用者になりました。その上、間接撮影の方が被曝量が多いという話も聞きました。原理的にそうでしょうね。胃部検診ですが、検診台に乗っている間結構な時間放射線を浴びています。だから、「右向いて」とか「回転して」とかいえるのです。そして、できるだけ撮影条件をよくしてから撮影なので、あの撮影時のみではないのです。肝の血管造影の時も同様でした。で、がんセンターの胃カメラ愛用者になりました。そして、これで異常がなければ治癒放免という5年目(1999年)の定期検査の時も同様に検査を依頼し、撮影して貰ったりしました。結果を聴きに行ったとき、主治医は胸部写真を忘れてしまっていました。「胸部も取りましたが」というと、「室外で待ってて」で、呼ばれていくと右胸に陰が。また、「外で待ってて」で前年のを取り出してきてました。「はい、CTね。」で予約は看護師がしました。CTの後、結果を聴きに行くと「直径2cmほど」で「呼吸器科への紹介状を書いておくから、予約を取っていってね」。この一言が病院変更を決断させました。妻に「次、入院するときは近くの病院にして」といわれていたのです。肝臓の手術後に徒歩圏内に総合病院ができました。そう、今回、救急でかつぎ込まれた病院です。この肺のことで脳もかかりつけ病院になっていたのです。長くなるので続きは次回に。
 4月21日(日)、肺の影ですが、近所の内科に行って、「職場の検診で指摘された」ということで紹介状を書いて貰いました。呼吸器科を受診しました。がんセンターの紹介状はがんセンターの私のカルテに挟まったままだと思います。また、CT、気管支鏡、骨シンチレーションなどをして、入院になりました。手術の前日の説明で担当医から「検診でよく見つけて貰いましたね」といわれました。職場の検診では見落としが多いからでしょうね。特に「初期がん」では。普通は見落とされる大きさだったようです。検診車じゃないから、直接撮影の大きな1枚を前年の大きな分と比較してだから、見つけて当たり前とは紹介状の手前いえなかったです。撮影した時期のタイミングが非常によかったということかな。数ヶ月前なら直接撮影でも写っていなかったかも。翌日、手術でICUは半日だったかな。今回はICUまで点鼻薬を持ってきて貰っていました。手術後、朝食で一度だけ胃から逆流させてしまったことがありました。1週間後ぐらいに肺に入れていた管を抜いて貰って自由の身になりました。管の入っているとき、「寝れない」とかで睡眠導入剤を処方して貰って服用した結果、寝ている間に裸になっていたみたいなのです。以後、導入剤は中止、以前から「夜寝たい」と昼間活動をしていたのをさらに活発にすることにしました。「薬」には副作用がありますから注意しましょう。自由の身になってから、売店のある階まで階段を使うようにしました。病室は9階です。売店は2階。MRIは地下1階。自由の身になってすぐ頭のMRI撮影に呼ばれました。当然、階段を下りていきました。これは、入院前の頭部CTで非常によくない感じの血管が見つかっていたのです。これでも疑問のまま。で、脳の血管造影」をしますかという判断を求められました。方法は「股の血管にカテーテル」という検査です。このときの毛ぞりでは、知り合いではなかったので、その点は気楽でした。でも、息子から「液体」がすこ~し漏れました。尿に関しては管を挿入して貰いました。この管挿入は簡単なのですね。頸動脈の方まで伸ばすので脳梗塞の危険もありますということでした。造影検査をしました。血流は普通の血管を流れているのと同様で動脈瘤の流れ方ではなかったので一件落着でした。これで、脳の方もかかりつけ病院となりました。こっちは救急受け入れもしています。無理して行こうとした理由です。他の病院では「動脈瘤」騒動も加わることになりますのでね。自由の身になって3日目ぐらいかな。主治医はいないだろうと9階の階段の扉を開けたら、ばったり。「どこから」というので「2階から」、「未だ早い」のお言葉でした。でも、やめれなかったです。何日目だったかな。結果を教えてくれたとき、「5年生存率65%」といわれました。それなりの根拠も説明してよ。「からだの科学」の「肺がん」の数字そのままでした。大きさは18mm×20mmでした。長くなるので続きは次回に。

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2013年4月21日 (日)

成長戦略?

 「単に課題を並べただけでは」と感じます。そう思うのは私だけでしょうか。研究資金問題、再生医療への実用化への規制緩和、成長産業への再就職をふやすなどなど、で、日本の成長産業はなになの?今、考慮に登っていない成長の目を育てるための戦略を期待したのですが、官僚の提言の寄せ集めみたいですね。
 選挙制度では「民主党何を考えているのだ」、まあ、他の野党もね。選挙区の区割り変更ができなかったから違憲状態になったのであって選挙制度の問題ではないですよ。区割り変更が頻繁に行えないのなら、「抜本改革?」をしても何年かしたら「違憲状態」になりますよ。「抜本改革」って簡単にできるのかな。簡単にできるのなら「区割り変更で取り敢えず違憲脱却」してから「抜本改革」をやったら。区割りの問題をなくす方法は全国一区の超大選挙区、参議院の全国区ね。これしかないですよ。国会議員を30~50人減らしても今の国会の状況みていたら、官僚に使われて「無駄遣い」なんて減りませんよ。
 成長戦略に入れて欲しいのは、官僚とバックの団体の改革阻止の強力な部分の規制緩和が必要ですが、全く念頭にないみたいですね。この程度では、金融緩和での最悪シナリオ、「国債乱発によるハイパーインフレ」に行き着きそうです。今の景気は株高などが企業活動拡大の前に起こっているのです。企業活動が拡大したら株高になりますが、そうでないので「バブル」と同じ。まあ、企業活動拡大でもいろいろありますけど。地道に拡大して企業価値を高めた企業もあります。そのような企業を多数生むことができるようにですが、どうなることやら。
 「規制緩和」も「選挙制度」も入り口の議論で巡ってしまっているのが国会ですね。テレビの政策討論でも発言者の話を皆さんじっくり聞いていないですね。原発事故も、この手の入り口で議論がウロウロしている間に起こったのでは思います。
 アメリカの議員の質も低下してきている感じがしますが、日本はそれの何年も先を突っ走っている思いです。

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2013年4月15日 (月)

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活  No36

リハビリの効果がある理由  その2  リハビリには日中、できるだけ、からだを直立させておくとよいようです  高次脳機能検査を受けてみて   最近の足と歩行の様子  今回は腕の様子、また感覚が少し戻りました。   もがいて動かしていたら、効果が出てきています。  「発病のどのあたりからリハビリで復活するぞ。」と思い始めたか

 4月8日(月)、軸索の伸長や樹状突起の伸長が脳の再構成に必要になるのです。長さはいろいろですが、ともに細長い管であることは同じです。また、軸索は神経突起(管)の周りを扁平なシュワン細胞がぐるぐる巻きに取り巻いています。管もシュワン細胞も体積の割に細胞膜の割合が非常に大きい細胞であると考えられます。細胞膜が細胞膜として働くためには脂質が非常に重要な役目を持っています。その脂質には飽和脂肪酸や不飽和脂肪酸が使われています。飽和脂肪酸は人間は栄養分、炭水化物やタンパク質から造れます。不飽和脂肪酸は一部を除いて造れません。そして、細胞膜の働きは造れない不飽和脂肪酸を適量使うことによって維持されているのです。だから、必須脂肪酸があるのです。有名なのがリノール酸とリノレン酸などです。リノール酸は工業的に安く大量に大豆などから抽出できるようになりました。ただ、不飽和脂肪酸は常温で液体なので、水素添加で不飽和度を下げることで常温でぼちぼちの固体にしてできたのがマーガリンです。トランス脂肪酸というのも同時に造られています。欧米ではトランス脂肪酸の摂取について規制を始めています。まあ、ω6系の不飽和脂肪酸はリノール酸もですから、普通、不足することはないでしょう。問題は食物で偏在しているω3系のリノレン酸などです。背の青い魚に多く含まれています。他にもあるのですが、偏在です。DHAとかEPAとかもω3系です。そして、DHAは脳にとって大切な不飽和脂肪酸で、細胞膜に沢山使われています。どう考えても病院食では???と思ったのでサプリを買いました。いくら、麻痺側を動かしても、刺激してもDHAなどがなければ、軸索や樹状突起が成長できないと思ったからです。あるときから、麻痺側の痺れが酷くなってきました。これも調べて見ると、脳での再生活動が盛んになると痺れがあると書いていたサイトがありましたし、最初に入院した病院の看護師さんも痺れがなくなったら、再生が終了したというようなことをいっていました。私の場合はこのようなことでちょっとは再生がよかったのか、視床痛は出ていませんが、痺れは続いています。再生しているのという思いは、ちょいちょい実感しています。例えば、足の硬直感が強くなるとしばらく続き、その後、歩きやすくなるのです。ただ、注意しないと歩き方がおかしくなりかねません。これは脳が再学習しているからだと思います。それと、軸索突起誘導因子というものがあると、日本生化学会の和文誌「生化学」に出ていました。この因子が出ていないのでは軸索が伸びないことになると思います。分泌させるには動かすしかないのでは。樹状突起でも同様の仕組みがあるようです。
 4月9日(火)、今回最初の病院に入院してしばらくして、落ち着いてきて尿道に入れていた管をとってもらってからだと思うのですが、朝からできるだけ車イスに座って過ごすことにしていました。理由はベッドに横たわっていると夜間寝れないのです。日中にからだを使って疲れさせると寝られると考えたのです。でも、車イスは長時間座るようにはできていません。その時役にたったのがリハビリであり、トイレ行きだったのです。後でわかったことですが、からだを直立させておくということがリハビリでは大切なことだったようです。でも、このときは単に夜に寝たいということだけでした。人間は直立二足歩行をするようになってから脳を発達させました。「直立」というのがよかったということかな。以前の入院時と今回の違いにパソコンを持ってきてくれたというのがあります。テレビとの違いは、ネットをしても「自分で探し、操作をする」などをしないと邪魔な装置にしかなりません。以前の入院でもテレビは見なかったです。基本はラジオ、CDプレイヤーも持ってきたこともありましたが、映像も見れるのはパソコンで初めてかな。DVDビデオを見ましたが、なかなかお気に入りがそろわなかったです。ハリー・ポッターシリーズで最後の「死の秘宝Ⅱ」を持ってきて貰いたくて、「死の秘宝」に「Ⅱ」がついているものをといったら、1回目は「秘密の部屋」で2回目に持ってきてくれました。それで、パソコンでハリー・ポッターシリーズを入院中に何回か繰り返しみることができました。テレビでもチャンネル選びという行動がありますが、これはディスクを選び、ドライブにセットし,再生ソフトで再生するということをする必要があります。どちらの方がよいのかな。ネットでの外部への情報発信もできれうようになっていたのですが、SNSでの発信はしましたが、闘病記という意識はなかったです。退院してから闘病記というのをアップしようと思って、実行しました。ホームページタイプが10カ所、ブログタイプが10カ所、SNSが2カ所、そして、先月から日本ブログ村に参加しました。日本ブログ村参加のためにブログが一つ増えました(大笑い)。参加したことで、もう一度発病時からとかの記憶とかを整理してアップできたことはよかったと思っています。日本ブログ村、ランキングに参加していますのバナーのクリックをお願いします。http://toubyou-sisyou.blog.so-net.ne.jp/ がそのブログのアドレスです。
 4月10日(水)、今日は「高次脳機能検査」について、受けた感じを中心に書きます。担当はMさん、当たりですが、検査の内容が関係したのか「のり」が少しよくなかったです。まじめな日本人は「ジョーク」をいわないというか、何事にも堅すぎるような気がします。もっと話に「ジョーク」を入れてと思いました。図形認識の状況確認、見比べでしたかな。図形認識と図形記憶の状況を図を記憶して、別の用紙に書いてみるというもの。立体感覚については積み木を利用してテストです。動作の状況では、釘を打つ様子とかをさせてみるというもの。このとき、何回か手を打ってしまった動作も入れました。物語の記憶、「・・・区の民家で火事があり、消防自動車が10台出動しました。・・」というものでした。数列を覚えて逆に言うというもの、これは手と足を使えば4つの数字は記憶されます。その割り振りというか1~5と6~0をどう区別させようかと考えている間に終わってしまいました。確か最大5桁だったのでずるできますよ。要は手足や感覚以外での脳の障害があるのかどうかを確認しようという検査です。皆さん、「疲れる。2度としたくない」とかいっていました。この検査もその内容に見当をつけて、気楽に受けていたら、結構楽しかったです。ネットで「高次脳機能検査」で調べて貰えれば、詳しい内容がわかると思いますので試してみて下さい。認知症のスクーリング、ごく初期の見分けにも使えるのではと思います。まあ、受け身ではなく、能動的な活動を送っている方はそれほど疲れるような検査ではないと感じました。
 4月11日(木)、最近、麻痺した左足で片足立ちをしてみました。麻痺した直後は、左足だけでからだを支えるなんて自殺行為同様でしたが、右手で壁とかに触れている程度で結構な時間、結構立てるになりました。歩行練習の始めの頃は、体重の掛かり具合が全くわからなかったのがある程度わかるような感じです。ただ、足のふらつきは全く減少してないという感じです。感覚の戻りがあるようなので、以前書きましたように「感覚神経と運動神経の協同作業」で筋肉運動ができると思うのです。で、感覚神経が復活する度に脳が学習していると思います。硬直しすぎるのもこのような学習で翌日には大抵解消しています。そして、また、硬直、解消の繰り返しで、歩き方がおかしくならないように歩行時は注意が必要です。だんだん、杖も持っているだけになってきつつあるような歩行になってきつつです。足を痛めないようにも、かっこよく歩きたいです。「ブログ村ランキングクリックよろしくお願いします。」のバナーをクリックしていただければ、そのページの「脳卒中・脳梗塞参加メンバー」をクリックしてもらうと参加者の画像があります。そこの「あっけらかんさん」の画像のわんちゃんと毎日朝夕2回散歩に出ています。このわんちゃんと私の2人?でです。退院後もう9ヶ月ほど続けています。ドッグランをしたい。
 4月12日(金)、今回は腕の方。当初、完全に動かない、感覚はなかったです。右腕で動かしてみたりしていました。徐々に動くようになってきました。いまだに筋肉の痺れ、痛みが続いています。お風呂の時に筋肉を右腕で伸ばしたりは続けています。感覚が戻ってきた様子は言葉では表現しにくいですね。ドアの取っ手とかをよそ見しながら掴ませてみると案外できるようになってきているのです。取っ手の短いタイプはまだ不得意です。先日、ドンブリを持たせたら、以前より長時間保持できていました。でもまだ、信頼感には欠けます。コンタクト関係では、保存容器の開閉の時は本体をささせるようにはできます。左目の瞼を左手で開けるのも徐々に簡単にできるようになりつつあります。問題は足同様に筋肉の収縮が安定しない部分があるのです。コンタクトレンズは右手で洗ったりしています。左手は人差し指に載せる程度です。まだ、触っているという感覚がないのです。コンタクトレンズに触れているということがわからないと直接は触れないですかな。パソコンのキーの操作はもともと右手人差し指主体だったので、左手人差し指も参加させています。こちらも「継続は力なり」の典型ですかな。全く動かなかったのから考えると「よく回復したものだ」です。今日の訪問リハビリで感覚の戻りがまたよくなっているといわれました。ただ、わんちゃんは私に抱かれると凍り付いています(笑)。時々、落としてますので怖いのでしょう。特に家の中の階段は恐怖のようです。
 4月13日(土)、短距離の小走りはリハビリ病院で退院する頃には少しできるようにはなっていましたが、「走る」ということで「わんちゃんとドッグラン」というのが期待できる感じを持てるようになりました。今はできなくても「回復できる」と思い挑戦し続けることが完全麻痺から1年少しでここまで回復できたのではと思います。あきらめたらリハビリはそこでお終いです。脳での障害の場合は単純につなぐというのではなく、失った神経細胞の代わりを他の神経細胞にさせる必要があるのでは。これができなかったら回復はしないかも。樹状突起を伸ばし、軸索を伸ばし、新たな神経網を作るためには神経成長因子や軸索突起誘導因子を必要な箇所で分泌させるには動かそうともがくこと、物体に触れたり、少しでも筋肉を収縮させたりして感覚が復活しそうな刺激を与え続けることをし続けてきたのが役にたったみたいです。「never give up」とあっけらかんとした精神状態がよかったと思っています。今後もリハビリ状態をアップします。こっちは「アップ」また「アップ」とアップアップしております。なにせ、23カ所ですからね。
 4月14日(日)、「発病のどのあたりからリハビリで復活するぞ。」と思い始めたかということに書きます。視床出血(発病時はわかっていない。)して、1~2分後に歩行状態が少しおかしかったです。そのすぐ後、左手でものが掴めなくなりました。その時にすぐ思ったのは「リハビリで復活するぞ。」です。視床出血は死亡率の高い出血(病院到着時意識なし→やばい)で、一生車イス生活の患者も多い出血だとは結構復活してからネットで調べて思い知ることになります。私は死ななかったので「車イス」の方は家族から聞きました。これはまだリハビリでもほとんど歩けなかった初期の頃です。それでも、「何を言っているのだ。復活してやる。」とは思っていましたがいえませんでした。最初の病院に入院してバランス感覚なしを思い知らさせられるようにベッドから頭を下に転落しました。危険人物となりましたので監視が厳しくなったので目立たない「もがくように」ともに見える行動として、車イスに座っているときに左足で踏ん張ってみる(マシ)や、トイレの時、体重を左足に乗せてみる(失敗したら床に落ちます。戻れないです。)などがありました。トイレの支え棒を使った試しに麻痺した左手で棒を持たせて、お尻を少し浮かして右手でトイレットペーパーを持って拭いたら、はい、左腕が棒と壁の間に入ってしまいました。手前に来ていたら、頭から落ちていたかも。ぞっとしました。使っていたら使えるようになるのではとこっそりと試したことが他にもあったはずです。ただ、階段はこっそりはしていないです。ダンベルを持ってきて貰って左腕で持ち上げてみるというのはこっそりに入るかな。1kgですよ。発病前は10kgでしたから「軽い」はずなのに左腕では始めは持てなかった、持ちあがらなかったです。持ち上がるようになって、頭に衝突させたことも、骨折とかはなかったです。看護師さんに見つかったら「取り上げ」られますよね。

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2013年4月14日 (日)

風速と時速の関係からみる関連づけ能力

 最近は、温暖化の影響で大気がエネルギーをより多く持ってきたようですね。大気がエネルギーを持った例は、例えば「台風」かな。ですから、最近は「強風注意報」や「強風警報」、「暴風警報」などはよく出ているような気がします。竜巻注意情報は、最近頻発されるようになりましたね。
 ところで、強風によって起こる事故も増えてきていますね。風速20m/sとはどの程度なのでしょうか。簡単に実感できる危険な方法は時速72kmで走行しているトラックの荷台になにもつかまらずに立ち上がって貰えれば体験ですが、危険ですね。普通、トラックの荷台に人を乗せないのは風圧で飛ばされる危険性が高いからですね。
 そう、風の威力は凄いのですね。風速10m/sで時速36km、風速30m/sで時速108kmです。よほどの用事でもない限り家にいましょう。建物とかもこれだけの風圧を受けることになるので、鉄道も強風で「運休」するわけですね。時たま、飛ばされた列車がありましたが。瀬戸内海の本四架橋で暴風時に架橋を点検する車両を持っているそうですが、「重たい」などの風圧対策をしているそうです。
 風を甘く見ている典型が傘かな。ニュースでみていると「よくあんな状態」で傘をさしている人を見ますが、学習効果が無いようですね。最近は気象庁からの予報の精度が高くなってきているのに、風が強くなってから「家の補強」で屋根に登る人が絶えませんね。などなど、学校での評価に「記憶」以外の要素をもっともっと沢山入れて「関連づけ」や「学習効果が持続する」などにも重きを置いて欲しいです。
 13日にあった地震ですが、日本国中、どこでも何時でも起こる可能性のあるタイプの地震のようですね。東日本大震災の時の大地震は震源がある程度限られていますし、地震の規模で間隔が異なるようですね。マグニチュード9程度は1000年ぐらいかな。8前後は100年前後かな。日本はどこに住んでいても地震には注意が必要です。直下型は規模が小さくてもすぐ近くで起こるので揺れが大きくなりやすいですね。

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2013年4月 8日 (月)

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活  No35

PTのリハビリ その1  PTのリハビリ その2  PTのリハビリ その3  作業療法(OT)のリハビリ その1  作業療法(OT)のリハビリ その2と・・・   言語聴覚療法(ST)のリハビリ  リハビリの効果がある理由  その1

 4月1日(月)、4月になりましたが、未だ冬?という感じが残っています。特に左半身がです。リハビリ病院でのリハビリ、まずはPT、最初に10mの歩行時間測定をしました。杖をついてヨタヨタと38秒かかりました。ここでも歩行距離を徐々に伸ばすのは勿論ですが、足使いを指導して貰いました。本人にとって自分の歩く様子を見るというのは見にくいですよね。体重の載せ方などを含めて「かっこよく」歩行するということです。歩き方を忘れているのです。右足でできることが左足ではできないのです。単純な繰り返し動作の鍛錬が続くことになります。そして、姿見に向かって歩くことで自分でも確認するということの繰り返しです。それでも、徐々にかっこよくなり、歩きやすくなっていくのが実感できました。発症前よりかっこよく歩いているといわれたことも。発症前の歩き方は?。3月の終わり頃にリハビリ室のある階段の模型を使って練習を少ししました。あの足を回し出しという不自然な歩き方で固定しないように、そして、かっこよく歩こうという訓練です。これは一人では非常に難しいと思います。理学療法士の指導というが必要です。階段は1段ごとに両足を揃えるという方法を最初にしました。これですと、よい方の足にばかり体重が掛かることになります。それで、しばらくしてから、普通に昇降するという足使いの練習も始めました。右手で手すりを持って練習だったですかな。そして、右手を手すりに添える程度での昇降、何かあったときに手すりをすぐに握れるようにです。4月中旬頃に病棟内の歩行ができるようになりました。前にも書いているように許可された範囲内を用もないのにうろうろし始めました。5階西病棟内だけで1日4~5000歩歩きました。どれだけうろついたのでしょうね。
 4月2日(火)、少し春らしくに。ひょっとしたら、しばらくしたら夏なんてことが起こりそうですね。昨日の続き、昨年4月の中頃でしたかな、車イスで付き添いなしで下界にエレベーターを利用していってもよいということになりました。リハビリに関しての自主トレが始まりました。体重移動や足の使い方の繰り返し練習をリハビリ室で一応一人でするのです。単調そのもの、体の方は前日練習したことを忘れているので繰り返し繰り返し。この練習で「かっこよく」の基礎ができたのかな。セラピストさん等はまずいわないこと、「このようなこともできないの?」というようなこと、全くなかったです。よく辛抱して指導してくれました。毎日、同じことを聞いたりしているのですからね。その点、学校の教師に根性なしが混じっていますね。「何回聞くのだ」とか「こんなことも解らないのか」等々です。できないから、解らないから学校に通っているのです。すでにできたり、解ったりしていたら学校なんて行きませんよね。リハビリもできなくなったからしているのです。セラピストさん等はよく解っていましたね。私の場合は、視床で感覚神経がダメージを受けたのです。筋肉や皮膚などの感覚神経からの情報がなくなって動かなくなったのですね。感覚神経が回復するまで残った部分、例えば右足の感覚を頼りに左足の状態を推測することも練習しました。動くように使えるように他の部分の感覚を頼りに動かしてみたということです。5月になると病院の実際の階段を使った階段昇降練習の回数が増えてきました。それとともに階数も徐々に増やしました。そして、1階から5階まで上って降りれるようになったのです。5月には杖歩行ができる範囲が病院全体に広がり、エレベーターも杖でも一人利用になりました。階段は5月の最終日当たりで付き添いなしで昇降許可になりました。これで始まったのがエレベーターを使わないでの病院内うろちょろです。続きは明日にします。
 4月3日(水)、からだを動かさないことには神経の再生が起こらない。感覚神経の再生も感覚がわからなくても使ってみるしかない。6月になると、朝6時には散歩に階段を下り、病院の敷地内をうろちょろして階段を登ってくるという2000歩ぐらいのコースだったと思います。そして、朝食後の散歩、朝と同じぐらいです。リハビリにいくときには5000歩は越えていることが普通でした。5階の病室から1階に行くときも1階から5階に行くときも階段です。階段利用中は余裕がなかったですね。挨拶されると、おっとっとです。気を入れ直して続きになりました。リハビリ中そのものでした。リハビリでは、小走りやボール投げなどをしました。発症前まではかっこよく(年の割には)走っていましたので、もう一度同じように走れるようになりたいと。飼い犬と一緒にドッグランしたい。退院後は、最寄り駅まで歩いて往復とか、そこの百貨店の1階から5階までを階段で往復とか、10000歩ぐらいは歩いています。入院中は10000歩以上楽々達成していましたので、退院後もということです。ただ、セラピストさんに見てもらっていないので、歩き方が悪くならないかという心配があります。下手すると足を痛めてしまいますので注意しています。入浴したときに左足の屈伸を必ずおこなっています。左腕も右手を使って「伸ばす」ということをしています。最初の入院のリハビリの時から車イスは足を使って漕いでいました。割と早い時期から両足使いで漕いでいました。ただ、当初は左足を使わない方が楽でした。左足は足手まといでしたが、使っているうちに使えるようになってきました。転院後、踵からつけるという風に足使いを変えたところ、加速できるようになりました。ブレーキは両足床圧着制動を採用しました。その結果、左足の能力範囲内の速度までということになりましたが、暴走族という異名をいただきました。それでも、整形外科系の若者よりは遅いです。ただ、脳血管系疾患の患者さんは若くても優雅でした。遅い。私は「若い?」ので速いのです。この違いで「暴走族」になってしまったようです。事故防止の観点から病棟では足ブレーキで急停止できる速さに押さえていました。この車イス操作も足のリハビリになっていたと確信しています。次回はOT(作業療法)のお話にします。
 4月4日(木)、OT、作業療法でのリハビリについて書きます。入院初期に自分でできるのは右腕で左腕を伸ばしたり、曲げたり、上に挙げたりなどです。筋肉が固着しないようにと思ってしました。父親のリハビリの様子や自身の手術後の筋肉痛などの経験から、使わなダメになると意識があったからです。前にも書いたように関節についての意識はなかったと同様だったですが、筋肉の屈伸で関節も動かしていたことになりました。最初の頃は、机の雑巾掛けや斜面で錘を持ち上げたり下ろしたりの繰り返し、円錐状の用具を掴んで積み直すとかです。このときに、麻痺したら手が曲がってしまっているから、まっすぐに伸ばせたら、?みたいもののところで曲げたら掴めるといわれて、そうだなと思いました。病室に戻ると、左腕と手のひらとかを伸ばす動作を繰り返しました。この動作でまず感じたことは、全身の筋肉が収縮するということです。麻痺したことで脳のコントロールがおかしくなっていたのです。毎日続けました。お陰で全身運動になり、夜ぐっすりと睡眠できるようになったというおまけが、運動するということの大切さを身にしみました。主治医もびっくりするくらいの早さで指の曲げ伸ばしもできるようになりました。できるだけ、左手でものを掴んでみたり、触ってみたりもしました。腕を頭の上に挙げて伸ばしたり曲げたりもしました。可動範囲が少しずつ大きくなっていったのがわかりました。この動作では腕の筋肉は痛いですが、その痛みが出る範囲が外側へと移っていきました。まだ、車イスの足駆動がおぼつかないときにPTのセラピストさんが車イスを押しながら「左腕を上に挙げてみてください。」といわれたので挙げたら、もう少しで顔面にパンチを入れてしまうほどでした。まだ挙げれないだろうと顔を少し前に出されていたためです。足の方もこっそりトレーニングしていたように腕でもということです。コンタクトレンズを装着しないことには、世間がよく見えないのです。矯正すれば見える、でも、して貰うまでよく見えない。退院後とか自分でするほかないので手のリハビリは足以上に必要に迫られた課題でした。片手装着という方法もあるのですが、常に両手で装着で暮らしてきた者にとって死活問題でした(笑)。ハードのコンタクトレンズでのみ矯正できるので頑張るしかなかったのです。
 4月5日(金)、作業療法の続きです。転院した翌日から始まりました。目標として、コンタクトレンズが左手でも扱えるという意味で装着できるようになることでした。目標達成が困難だったです。最低限、装着できるは達成されることにはなりました。手を、腕を、使ってみるというリハビリであるというのは同じでした。感覚の戻り具合を確かめるというのもありました。日日がこちらの方が経過していますし、リハビリをしていたら感覚神経の再生も起こっているはずですからです。徐々に戻ってきている感じがしました。細かい作業も徐々にできる部分が増えてきました。目標が目標ですから、どうしても、チマチマ作業をしてみるということになりやすいです。もう一つの問題が利き手ではない方が障害を受けたということで多くの作業でたいして支障がないことが多いというのもあったのですが、動かしてみるということ、感覚を試してみるということを沢山してみるとことをしました。4月になるとセラピストさんの新人が入ってきます。こちらでは、新人に見学させてよいですかと聞かれたのでよいですと答えました。ところが、よいことに同じ方に固定されているみたいになりました。3月から担当して貰っている外れ、別の部分で当たりの担当者が代休の時、この当たりの新人のSさんを代理にしますがいいですかと聞かれたので、ずーと代わって貰ってもいいですよと答えました。これでかどうかわかりませんが、4月下旬に5月からSさんと代わりますがいいですかといわれたので、即承諾しました。当たりの当たりになりました。前任のFさんの英断に感謝しています。PTの方は3月に土曜リハで当たりの当たりのFさんにして貰ったとき、「月曜からもよろしく」といったのですがダメでした。これ以降、担当のUさんには土曜はFさんを、とか、OTでは代わってくれたから、交代をとか言い続けましたが退院まで代わらずでした。今年の2月に久しぶりにいったとき、このUさんが「Sさんに会いに来るついでに来て下さい」と。ここまで、しょうもない話ができるということもリハビリでは必要だと思います。ですから「リハビリは楽しい」をさらに楽しくしてくれたUさん、Fさん、Fさん、Sさん、Yさんには感謝しています。
 4月6日(土)、当たりの当たりのYさんによるリハビリ、言語聴覚療法のお話。初日、目標設定の時から、笑いの絶えないリハビリとなりました。もともと発声発音がよくなかったのでよい機会を与えてくれたという感じです。でも、やはり出血による後遺症はあったようです。本人は気にしていなかったので、「発症前より美声に」が私が言った目標です。実際発症前よりよくなったみたい。このときの発音発声がどの程度なのか知りたいというので3月末に家族と知人に会って貰いました。そこで2人とも「もう戻っている」とか「以前と変わらない」とかいいました。この最初のリハビリで深呼吸をしましょうといわれて、どうするだっけと考えてしまったのです。深呼吸できないと呼気不足でリハビリにならないですからね。脳出血や脳梗塞などでは単に動かないというのではなく動作そのものを忘れているということもあるのだと気がついたわけです。初めのうちは毎回、深呼吸、できるだけ長時間の呼気、それも少しずつ連続してはき出すというものです。鼻漏れを減らす練習、唇や舌の動きの練習、発音の乱れやすい語順の言葉の音読練習です。これの自主練習を病室でしているとき、耳の中で「アバダカダブラ」(読みに間違いがあるかも)とか聞こえているといったら、・・・といわれました。5月からは時間を半分にされました。他のメンバーの圧力のようです。退院の近くまで引き延ばして貰ったリハビリでした。いつも笑いのあるリハビリでした。
 4月7日(日)、リハビリに積極的に取り組んだわけは、人間の脳の可塑性というかある意味再生力を信じていること。過去に学んだり調べたりしたことをつなぎ合わせると人間の脳は失われた部分は戻りませんが、残った部分での代償機能を活性化させるにはいろいろからだを使うしかないのです。進化でも「脳が発達したから」というのではなく「両手が自由に使えるようになって作業をしたから脳が発達した」という方のようです。脳で再生を起こさせるにはからだを使うしかないのです。そして、脳にからだを動かしたい、使いたいと刺激を与え続けるしかないのです。そして、使わないと退化するのが人間の体です。実際、筋肉は使わないと固着しますし、関節は錆びついてしまいます。筋肉は細くなります。骨もボロボロになっていきます。そうなると、動くようにするにはものすごく時間が掛かるのです。脳の再生はプラナリアの再生のようにはいきません。軸索や樹状突起を伸ばして、なくなった部分の代償ができるところを探しながら起こっているようです。ですから、時間が掛かります。確実というわけにはいきません。でも、何かが起こっているはずです。それを期待してということです。できるだけ早い時期から取り組むのがよいということです。ところが、リハビリ病院や最初の病院で感じたのは「後ろ向きな気持ち」でリハビリを受けていると感じる患者さんが結構いたのです。私は左半身完全に動かなかったのですよ。ベッドのリモコンを動く右手で使って上半身側を起こしていっただけで、背もたれとしてベッドがあるのに、ベッドから頭を下にしてぶら下がるように転落したのです。感覚器官も左は麻痺していたのです。これで、この視床出血で2回死にそこなったので、復活しないわけにはいかなかったというのもあったりして。それで、復活してきて、「あなたは軽かったのでしょう」といわれるほどになりました。入院当初に食事の栄養バランスをみて、?と思ったのは脂質についてでした。食材をみて思ったこと、「必須脂肪酸」は大丈夫なの?という疑問でした。普通に肉があったら必須アミノ酸は不足することはないですからね。この疑問の根拠は次回にします。
         今週は痺れや筋肉の硬直感、収縮させたときの痛みが強くなっています。お風呂で筋肉を伸ばしたり、屈伸させたりして固まらないようにしています。原因は脳の再生と思っていますので、再生が大体終了したときに筋肉と関節が使えるようにしておく必要があると思っているからです。

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2013年4月 7日 (日)

災害の間隔

 東日本大震災から2年が経ちました。復興が進みつつあるところや手つかずのところまでいろいろありますね。
 ところで、今回は貞観地震以来の大地震といわれています。災害の規模はどの程度が最大なのでしょうね。最大なのは巨大隕石で地球が吹っ飛んでしまうような状況かな。これの対策は早く隕石を見つけて軌道修正ができるかどうかに懸かっています。太陽の異変は手のつけようがないと思います。
 で、もっと小さいのでは直径10km程度の隕石はぶつかれば、恐竜絶滅などと同等の災害ですね。方法は超巨大隕石と同様かな。もう少し小さいのは「破壊」も考えられますが、軌道修正が一番でしょう。早期に見つけることのできない隕石は運を天に任せましょう。天から降ってくるのはこれくらいにして、地球だけ?で起こっている災害について考えてみましょう。
 まずは気象現象による災害。これははっきりいって、毎年、そして、1年のうちに連続してということも考えられますし、今年の吹雪は同じような地域に何度きましたね。竜巻にしろ、豪雨にしろ、台風にしろ、何回でもということが起こりえます。そして、豪雨は降り続きます。理由は太陽からのエネルギーが今まで以上に大気に蓄えられる状況になっているからです。豪雨が収まっても数日後にはまたということが十分に考えられます。干ばつなどは延々と続き、毎年ということもです。崖崩れは起こって、十分に崩れてしまえば後は小規模になる可能性が高いですが、洪水は何度でもかな。
 その点、地震は巨大なのが起こってしまえば、しばらくは巨大なのは起こらないですね。だから、気が緩んで、あるいは忘れてしまって「ここでは巨大地震は起こらない」などと思い込むことになるのです。「類推」ということがどこまでできるかということが災害を減らすために必要だと思います。1960年のチリ地震やスマトラ島沖地震が起こったときに同じような地殻構造の日本での可能性に考えが及ばなかったのでしょうね。1000年単位の今回の地震、ひょっとしたら10000年単位などの地震があるのかもしれないですね。人類が記録を残せるようになってたかが5000年かな。地震の観測に至っては100年程度でしょ。
 地震は大きいのが起こってしばらくしたら大抵は落ち着いてますね。それで、「災害は忘れた頃に起こる」となるのです。間が開けば開くほど大きくなるのが地震ですかな。
 間を開けずに襲う「温暖化による災害」を防ぐために行動を起こすときかな。干ばつなどの異常気象で農業が打撃を受けると人類が滅びるかも。

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2013年4月 1日 (月)

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活  No34

動作とは感覚神経と運動神経の共同作業  入院時の症状(再掲)  食後服用の薬の多い理由→飲み忘れ防止   「リハビリは楽しい」、これは実感ですその1。   「リハビリは楽しい」、これは実感ですその2。  リハビリ病院への転院の頃に思ったこと 

 3月25日(月)、昨日の足の硬直感が嘘のように消えました。それなりに歩きやすくはなっているみたいです。久しぶりにダンベル体操をしました。左腕の状態も足同様楽になっていました。一進一退みたいな感じです。夕方の犬の散歩で「お帰り」が極端に早くて10000歩のはずが8800歩ほどになってしまいました。
 3月26日(火)、左腕の痛みが強くなりました。筋肉を収縮させたときにでる痛みです。寒さも関係しているのかもしれないです。また、冬に戻ったみたいな気温ですから。にほんブログ村の病気ブログ脳卒中・脳梗塞人気ランキングで『脳梗塞・脳出血 後遺症のリハビリ「動きのコツ」』(http://ugokinokotsu.blog.fc2.com/)というのを見つけました。参考にできることが沢山ありますので、読んでみてください。まあ、私はリハビリの早い段階で感覚神経と運動神経の協同作用で筋肉の収縮、動作ができるのだということを実感しました。どうして、ロボットが豆腐をお箸で掴めないのか、にぎり寿司のシャリをロボット化に苦労されたのかというのと同じです。私の場合は視床出血なので感覚神経が復活する度に脳の再学習が必要であるということ。一気にすべてが復活することがないようなのでだらだらと復活、その度に再学習、これの繰り返しになります。神経細胞で軸索の成長促進と軸索突起の誘導因子分泌促進が起こるような生活が必要だと思っています。
 3月27日(水)、発症時の症状の具合について繰り返しになりますが、書かせていただきます。すみません。発症したとき、どうも棺桶に足をかけていたようなのです。どうしてこのように思うのかというと、救急車で病院に到着したときの記憶が全くないのです。到着後、どこかで「コンタクトレンズを外してください」といったのは覚えているのですが、次に気がついたのは何時だったかは?です。昏睡か傾眠、半昏睡のどれかです。一番軽い傾眠でも約20%ほどの死亡率になるようです。ですから、このような状態では結構な確率で棺桶に収まっているというの感じかな。ある文献によるとこのようなときの自立生活復帰率は低いです。だから、重症度を低くみられる程度に回復しました。
 3月28日(木)、これも繰り返しになります。すみません。薬の服用で「食後服用」という指示がやたらと多いですね。飲み薬ですと多くの場合、胃や腸で吸収されて血液に入ることによって作用します。血中濃度です。これが高くなりすぎると副作用が出ます。低いと作用が低下したり、効かなかったりします。血液に入った薬は肝臓で解毒されたり腎臓から排出されたりして減少します。こちらは普通血中濃度に比例しているようです。現在の私は朝1回と朝夕2回の薬ですので服用の時間間隔はどれをみてもほぼ同じぐらいになりますし、同じにできます。もし、毎食後ですべて同じ製剤なら夕食から朝食までの時間間隔は長く、昼食前後がその半分ぐらいの時間しかないことになります。薬の種類、効果、昼夜の活動の違い、体の状態などで一概に言えないのですが、早朝食事前が一番薬の血中濃度が低いことになりますね。それでその薬の効果が十分にあって日中の濃度の高いときに問題がなければよいのですが、このあたりの説明が全くないのが今の日本かな。説明が欲しいです。「食後」というのは飲み忘れ防止が一番の目的だそうです。時間医療、一日の生活活動の時刻に応じた医療というのもいわれだしていますよね。代表例が糖尿病でのインスリン注射かな。間違うと死にますからね。血圧管理やら増えてきています。活動に合わせた治療の方がよいに決まってますよね。
 3月29日(金)、最初の病院でのリハビリについて、2回詳しくというかもう一度書いてみます。救急車で病院に到着したとき、昏睡みたいですね。それから、何日かして意識がしっかりしてきて思ったことは「筋肉が硬直してしまわないようにしたい。」ということです。関節のさび付きは、結局筋肉を動かすときに関節も使っていたみたいです。このとき実感したことに腕や足のなんと重いこと、重かったです。BMIは平均的な数値で手足は細いといわれていたのに重いと感じました。動く右腕で左腕を持ち上げたり、伸ばしたりをしました。足の方はどのようにしていたかですが、車イスとベッド間の移動とかトイレでの移動とかが役にたっていたような感じです。残念なことはおしめをしていたとき、中に一度も排泄しなかったことです。「排泄して世話して欲しかった。」と看護師さんに言ったら「止めてください」でお終い。残念でした。それと食事で他の患者さんは看護師さんに食べさせて貰っているのに、私は右手のみの片手食い。食べさせて欲しかった。これも残念。入院中の病院は3月3日にはおひな様のお寿司がでるので「早く普通食に」とお願いしていたのにおかゆのまま。食い物の恨みは怖いですよ。恨み続けますからね。リハビリは入院後数日してからリハビリ室で開始。PT(歩行の方)で、兎に角、まず立ちました。よく立てたと思います。平行棒の間に立って、もう一方の方に姿見を置いてくれましたが、姿が見えないのです。視力が悪く、ハードのコンタクトレンズでないと矯正できないタイプなのです。たいして、リハビリができませんでした。当然OTの方もです。翌日、漸くコンタクトレンズを装着して貰えました。リハビリの進みがよくなりました。
 3月30日(土)、昨日の続きです。PTでは平行棒の片道を補助されながらというのが最初だったかな。数日片道で次が往復です。往復数日してからリハビリ室巡回コースを、日を追う毎に距離を少しずつ伸ばし、部屋一周できるようになりました。杖を他の患者さんからみたら早くから使い始めました。単独で部屋一周できるようになりました。OTでは腕を動かす訓練と手でものをつかむ訓練をしました。その時、「麻痺したら手とかは曲がりますから、伸ばして、目的のもののところでもと?の曲がった状態にしたら掴める」と教えて貰いました。実際そう思ったので病室では左腕と左手を伸ばす動作を繰り返ししました。視床出血の影響で運動神経のコントロールもおかしくなっていたようです。初めのうちは全身の筋肉が収縮したのです。疲れて夜がよく寝られるようになりました。そうこうしているうちに指の動きまでもが徐々によくなってきているのが判りました。リハビリで意欲がわく理由の一つが「回復の様子が実感できる」ということです。何日か前に書いた「脳が動きを忘れている」の典型だったのですね。だから、「動くようになってから」というのはあり得ないということなのでしょうね。もう一つがセラピストさんといろいろ話を楽しくしながらリハビリができるということでここの病院でのセラピストはどちらも「当たり」ですが、さらにもう一つの点では1勝1敗です。次はリハビリ病院でのリハビリの様子にします。
 3月31日(日)、昨年3月13日にリハビリ病院に転院しました。転院前に噂ではリハビリ病院のリハビリは厳しいとか聞いていたのですが、結論を先にいうともっと楽しくリハビリに励みました。ここのリハビリなら通院したいのですが、「入院患者のみ(一部例外あり)」なので普通は退院とともに終了でした。残念でした。転院の日に私の障害の程度を調べに外れ3人と当たり1名が病室を訪ねてくれました。外れ3人のうち2人が翌日以降のPTとOTの担当者でした。この2人ともリハビリ中に毎回話をし続けたという感じで当たりでもありました。まあ、ほんまにしゃべり続けたわけではないのですが、退屈もせず、なにか楽しみながらできたということです。当たりの1名は担当ではなく「様子見」でした。翌日からは退院間近まで担当していただいたYさんにお世話になりました。いろいろな意味で「当たり」です。Yさんのリハビリで「筋肉の使い方を忘れてしまっている」ということを最初に実感することになりました。だから、リハビリは筋肉等を上手に使えるようになることなのですが、脳にもう一度おぼえ直して貰うという作業があるということにも気がついたわけです。前は筋肉とかを動かせるようになったら、普通に使えると思っていた節があるのです。動くだけでは使いものにならないですね。脳での神経の再構築ができたというのは再学習もほぼできたということと同じかも。これは、子どもの成長と同じです。繰り返し繰り返し試してみて行動してみる。そしてできるようになるということです。その学習結果として、リハビリの効果が出てくるとね。そして、使わないと退化するのが人間の諸器官である。「当たり」と「外れ」の意味、ぼちぼちお解りかな。
          最近の歩行感覚がなんとも言いにくい感じです。よりよくなってきているような、いまだにふらつきがあるというなんとも言い難いです。痺れが続いているのでリハビリ効果は出ているみたい。

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