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2012年8月24日 (金)

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活

 記憶だけを頼りに書いてみます。2012年8月22日記録 リハビリはまだまだ続きます。俗にいう6ヶ月を過ぎたのですが、復活していると感じられることが日々起こっています。また、追加をしたいと思います。
 2012年2月9日午後6時頃職場のトイレで尿放出中に脳の中で出血が起こったような感じがしました。以前からもし脳で異常を感じたときは自宅近くの総合病院に行こうと決めていました。理由は13年ほど前に脳の血管造影をしていたからです。その時に脳の中に動脈瘤によく似た形の悪い血管があると。異常ではなく、形が鬱陶しい。ですから、その時も手術などという話は造影検査結果で消えていきました。今回は他へ行けば当然騒動になるので、すぐに車で向かいました。これは自損事故に済みましたのでほっとしています。
 事故の音で助けに来てくれた方に「脳内出血」なので救急車を呼んで貰いました。救急隊の方には血管造影の件もお話ししたら、診察券を探し出してくれて、番号を言ってくれたので目的の病院に受け入れて貰えました。すぐにCT、で視床出血であると判明しました。造影の写真のある病院なので点滴だけで経過観察という普通の視床出血の治療になりました。その結果、早期にリハビリを開始して貰えました。脳卒中の治療などと同様にリハビリも早期に開始するのがよいのです。そして、その時、本人が回復するのだという意欲に満ちて積極的であるということがあればより効果が高くなると考えられます。そして、「リハビリは楽しい」と思えることが大事です。
 入院して2日目かな、持病のひとつ、鼻づまり、で鼻が詰まったので上半身でも直立に近い状態にしたいと思ってベッドの上半身側をリモコンで(左半身完全麻痺の時です。右手で)起こしていったら、背もたれにベッドがあってもバランスが取れなかったのです。さすがに感覚麻痺です。これほどの症状とは思っていませんでした。ベッドから頭を下にして落下したのですが、さすがに感覚麻痺で動かない左足がそのままベッドに残って頭の先端が床に接する程度でとまりました。命拾いですし、受け入れてくれた病院に迷惑をかけずに済みました。頸椎損傷もなかったのです。ただ、部屋替えでナースステーションから一番監視のしやすいところに移動と相成りました。
 しばらくして車いすに座れるようになりました。出来るだけ長時間車いすに座るようにしました。簡単に言えば「夜に普通に寝たい」これにつきます。病院の深夜はホント退屈です。そして、何日かしてからは朝6時半頃から夜8時過ぎまで車いすでした。当初、トイレは行っていないですね。尿は管を入れていましたので。それをとってもらってトイレに行くようになりました。ただ、看護師さんによる送り迎え、服の上げ下ろしです。でも、「車いす取ってきますね」を離れた隙に左足の鍛錬を非常に短時間ですが始めました。但し、トイレの介助用の棒を右手でしっかり抱きついてました。そのうち、左足も幾分か役にたつようになったころ、看護師さんと一緒だったのですが、トイレで急に左足の力が抜けてしまいました。床に落ちはした。元に戻るのに苦労しました。今は正座から支えなしで簡単に立ち上がれます。
 また、車いすに座っているときに左足に力を入れてみたりしていました。ベッドサイドでの車いすの位置でなかなか思う位置に止めてくれないので、右足と右手を使って移動をするようにしました。方法は右足でからだを少し浮かし、落ちてくるまでに右手で椅子を持ち上げ、右方向に引っ張るということをしました。これ、失敗はなかったですね。物理学的には倒れない程度にしかできないと思っていました。
 リハビリですが、理学療法で平行棒の他端に姿見を置いて「見えますか」で「見えません」。翌日からコンタクトレンズをして貰えるようになりました。コンタクトレンズ以外で視力矯正の出来る人はそちらでということです。担当のセラピストさんからみると「回復が早い」部類に入るようです。理由を勝手に考えると、発症前、階段好きや犬の散歩、ダンベル(10kg×2)などで足腰を鍛えておいたからかな。車いすを動かすとき、右足でおこなっていたのを、あるとき、左足も参加させたら、左足の鍛錬になるよと言われました。ところが、左足を使うと右足だけより時間がかかるのです。でも、使っていくうちにぼちぼちの使用感になってきました。「使えるようになってから」ではなく、「使えないのなら使えるようにしてしまえ」という感じだと思います。
 作業療法で、「指を伸ばせたらものを掴めるようになるよ」といわれて指を伸ばす運動を開始しました。そういえば、麻痺したら勝手に指は曲がっていました。それと腕を上に上げる運動ですね。特に腕で出やすいのが「硬直による筋肉痛」。これを防ぐのは「筋肉を伸ばす。」これしかないですね。右腕と同じような範囲で曲げ伸ばしできるはずである。痛くても少し我慢しておこなう。これを繰り返すと、普通に屈伸が出来るようになるはずであるとね。そうこうするうちにものが掴めたり出来るように。そうしたら、ようもないのに車いすの手すりとかベッドの手すりとかを掴ませました。そして、腕に力を込めてみました。また、リハビリ用に小物を持ってきて貰っていじくりました。感覚の復活は出来るだけ多くのものを触ってみる見たいです。左手で握手しても未だに鈍いです。
 そうこうしているうちに急性期の病院から回復期のリハビリ病院への転院となりました。3月13日です。
 当初の入院期間3ヶ月というのを聞いたので「爪白癬」の治療を依頼しましたら、開始して貰えました。こちらでは、理学療法(PT)、作業療法(OT)、言語聴覚療法(ST)の3つを受けました。PTのUさん,OTのFさんは男性のセラピスト、STのYさんは女性のセラピストさんで感じがよい上、冗談が通じるのです。
 当初にそれぞれ「目標」というのをいうのです。表の目標をまずいいました。その後、徐々に本音の目標をね。STは裏表なく「発症前より美声に」です。3月13日に転院して、その月末に見舞いに来た人と私の妻とSTのYさんにあって貰いました。そして、「もう発症前に戻っている」と2人はいいました。誕生から今までの生育歴の中での発声の悪さの矯正ということに相成りました。でも、ここの病院は発症による障害のリハビリなので本来の目的とは???。発症による障害のあるということで退院まで続くことになりました。途中、存続の危機をYさんが乗り越えてくれました。PTは「犬との散歩」が表、本音は「近所のスーパーに水4リットルもらいに行って、それを担いでその近くの百貨店の1階から5階まで階段を昇降し、家まで担いだまま、歩いて帰る」というものです。この「階段」というのが病院の階段を利用するというのに繋がります。OTは「コンタクトレンズを左手も使って装着できる」、私は両手使いで装着していました。本音は右手と同様に左手でもコンタクトレンズが扱えるということです。STとこれが実質で面倒では。
 PTは、当初前の病院と同様にリハビリが進みます。時間はこちらの方が10分長いです。杖を使ったり、平行棒を使ったりしながら、そして、階段の模型で階段昇降の練習も始まりました。土曜日に重症者相手の「土曜リハ」というのがありました。これが問題だったのです。Fさんという女性のセラピストさん。終わったとき、「月曜からもよろしく」。この手の話が退院まで続くことになります。PTのUさんは妻にいわせると「美形の男性」で同じ受けるのならおばさんより断然こっちという美形です。
 OTは、感じが違ったタイプのリハビリでしたが、ようは麻痺した方をこき使うというのに変わりはなかったです。そうこうしているうちに4月になりました。PT、OTともセラピストの新人が入ってきました。「見学してもいいですか」あるいは「見学させてもいいですか」。PTは違うセラピストになるのですが、OTはSさんにほぼ固定。そして、担当セラピストの代休の時、「私の代わりにSさんでいいですか。」と「その時だけの担当変更票」を渡されたので、「これがなかったらずーと変わるですよね」とかいってしまいました。そりゃ、私は男、セラピストは女性の方がいい。冗談で言ったのが、4月の下旬に5月上旬からSさんと変わりますがいいですか。御の字で承諾しました。で、PTへの風当たりがきつくなったのはいうまでもありません。
 5月上旬からは病棟内歩行可(杖使用)になりました。4月には車いすの暴走族みたいないわれ方になっていました。これは転院当初に車いすのこぎ方を診てもらったら、「つま先ではなく踵を先につけた方が歩行にも役にたつよ。」といわれたので、踵からつけてみると姿勢も前屈みに出来足に体重が乗せることが出来ました。そうしたら加速できるのです。それから、加速するには足の回転を速くしないと事故の元になります。で、左足を鍛錬して右足にある程度ついて行けるように出来たため、「暴走族」になったようです。それで、観察してみると、脳血管疾患者は優雅ですね。若くても優雅にこいでいます。整形外科系の若者は速いですね。私は整形外科系の方の近づいていたようです。一人で歩行が出来るとなると用もないのに病室とナースステーションの間を往復。日に数十回はしました。こちらも速い。主治医が私を追いかけるのに少し苦労したと言っていました。
 そして、階段練習要求をするようになりました。練習を重ね、5月下旬頃、一人で階段昇降の許可が出ました。その次の日にOTに行ったら{・・さん階段できたのでしょ」とSさんが言ったので「はい」と答えました。前々から「階段使いたい」と言っていましたので。そして、1日に1階から5階までの昇降を7~8回ぐらいを毎日するようになりました。6月には「小走り」の練習やボールけりなどもしました。階段を使い始めてからの歩数は10000歩を優に超え15000歩ぐらいが普通になりました。PTでFさんが他の人を指導していたりすると「よそ見」したりするので「よそ見しない」とか「ついて歩かない」とかいわれました。リハビリは楽しみながらするものですね。
 OTは「感覚が戻ってこないことには」という部分が大きいのでPTとかみたいな目立った進歩は感じられないのですが、徐々に出来ることが増えていきました。Sさんのお陰です。STはSTのYさんが引き延ばしてくれて退院の少し前までできました。
 今回のことで病院食に注意が向きました。その一つは「リハビリは脳神経系の再生」でもあるのです。この再生は脳細胞を増やすのではなく、死んだ細胞などが作っていた回路を生き残った脳細胞が樹状突起を伸ばしたり、軸索を伸ばしたりして再構成することでおこなわれます。樹状突起や軸索は非常に細い管です。早くいえば「細胞膜の塊」ですね。細胞膜の特徴は「流動モザイク説」で示される柔軟性にあります。柔軟に且つそれぞれの部位での働きをさせる上で必須脂肪酸というのが非常に大切な働きをします。それで、食材を見ると???。ω3の脂肪酸を無視している感じがしたのです。ω3の脂肪酸の一つがDHA。これ、「子どもの脳の発達に」とかありますね。リハビリの時の脳も子どもの脳も軸索や樹状突起を伸ばすというのでは同じなのです。そのあたりを考慮していないという感じの食材でした。リハビリは保険制度とは関係なく「時間との勝負」なのです。それの足を引っ張っているという感じです。私はサプリメントを買いました。
 リハビリはいくつもの面で「時間との勝負」ですが、患者、医師、栄養士、セラピストなどの意識が低いですね。それは、患者の意識を高めるということ、栄養面のことなどです。
 コンタクトレンズを装着ですが、最初の病院では、当初看護師さんにして貰っていました。そして、まぶたを持って貰って私の右手で装着、外すのは右手の指で外します。ケースへの収納とかして貰っていました。いつ頃から、左手でコンタクトレンズケースを保持できるようになりました。転院後はまぶたを開けて貰うということで装着していました。紛失騒動やズレによるトラブルもあるのですが、視力の確保という点でコンタクトレンズを装着する必要があるので看護師さん等は諦めですかな。早く左目のあたりの感覚と筋力の回復を期待しつつ面倒を見てくれました。
 4月にSTのYさんと患者さんのNさんと私で敷地内の桜の花見に出かけました。その時、歩道と車道の間の溝に右側の車輪が少し落ち込んだので右手と足を使って、おしりを浮かし、車いすに座ったまま持ち上げたら、Yさんが「車いすが浮いている」とかいって慌てて私の方にきてくれました。車いすに座ったまま、椅子の片側とかを浮かすことは出来ます。
 人間は常に可能性を持っています。それを引き出せるかどうかは本人の意欲とそれを支える周囲の力添えによります。「リハビリも楽しい」に出来ます。楽しかったです。「入院生活も楽しい」に出来ます。「楽しい」から「頑張る」ことができるのです。これは子どもの勉強とかと同じだと思います。
 視床出血→感覚神経麻痺であるが、運動神経無傷のはず。→運動神経をなんとかして使う。→感覚がなくても動くのでは。→そう、動いた部分もあるようです。
 病気療養中に「退職」となりました。どのような形の退職か想像してみてください。答えは書かないことにします。
 完全には回復できませんので、上肢7級、下肢7級の障害が生涯残ると診断されました。発症してすぐに「要介護認定」を受けました。その時の認定は「要介護4」です。先日、6ヶ月後の認定を受けました。どこまで転落すのか。介護保険から転落して「即介護保険適応外」はないという話なのでどこで止まるかはらはらものです。

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