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2011年9月 2日 (金)

教育には飛び級や待ちとかが必要なのでは

 2011年になっても、大阪府の橋下知事などの教育への話しぶりですと、同一学年での順位争いをさせるのを想定させるような言いぐさが耳につきます。
 そして、飛びや待ちとかが出来ない硬直した教育状態にしているのに気がつかないようですね。「飛び級」ではなく、「待ち」そう児童生徒の成長を手助けしながら待つわけですね。ところが、今の日本の教育への意識ですと「待つ」というのは「原級留置」も伴うこともありますし、そうでない場合は補習とかですね。これ、「平等」というをどう捉えるかです。待たないときは、判らなくても進級ですね。判らないから「丸暗記」とかになっていきますよ。それと、教育の意味の取り違えが深刻になっていきます。
 本来、子どもは勉強好きです。それを自発性のない義務感覚の受け身の教育にしていくのは、親や教師が子どもの成長ではなく、ただただ「順位」で見ているからでしょうね。ですから、「丸暗記」大好きが多くなってきているのでは。「丸暗記大好き」生徒とかには、覚えることだけで考えさせずに覚えさせ、トレーニングすると取り敢えずは覚えています。ですから、大学入試センター試験で考察問題とかを増やすと平均点が下がるのですね。考察問題は出題教科によっては作りにくいのがあるみたいですね。
 元々日本人は「覚える」というのが好きだったりしているのかな。「読書百遍」とかいう言葉もありますね。でも、以前は「遊び」が自然を相手であったり、多学年で構成されていたりでした。どちらも減ってますね。クラブ活動は多学年ですが、多くの場合は管理されていたりしてね。
 「飛び級」の方ですが、飛び級が出来るほどというのは「優秀」なのですが、単純な順位でのみの評価を続けていたらどうなるのでしょうか。親がしっかりしていないと「慢心」というのが起こりやすいですね。ですから、出来る子にとって「相対評価」は「皆でサボれば怖くない」の入り口になる恐れがあり、その時、たまたま順位が悪いのが続いた子にとっては,さらに順位の子、点数の悪い子があれば、「ラッキー」になってしまうようです。勉強内容も発展性のない記憶中心に向かってしまう恐れが多いですね。
 教育とは、子どもがどう成長したかであって、何番になったかではないのです。何番とかは「入試」の本番だけでいいのでは。それも、出来るだけ「アバウト」な判定で、入学後、勉強させて卒業基準を守って貰う方がよいのでは。そして、何浪しようがいいではないですか。どれだけ、「飛ぼう」がいいではないですか。そうすれは、今よりは「勉強」に向かってくれるのではと期待しています。
 私の家庭では「何番?」とかいうのは、塾通いの時でもほとんど出ませんでしたね。大学入試の時もね。俗にいう「難関大学」に進学してくれました。「勉強しろ」といったこともほとんどありません。親が見本をみせればよいのですし、幼児期とかには本読みとかの遊びのお相手はしました。俗にいう早期教育はしていません。「勉強は楽しい」を実感させるのいいですし、順位競争を親とかがけしかけると「勉強は義務」になりますよ。

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